opuesto / Tate’s Official Blog

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大越健介氏

大越健介という方をご存知でしょうか?

NHKのキャスターさんです。
月〜金曜日21時から放送されています、ニュースウォッチ9の、、あの方です。

以前、女性キャスターの井上あさひさんに触れましたが、今日は、大越さんです。
珍しく、男性キャスター、、です(苦笑)。

私は評論家でもなければ専門家でもありません。
ちょっと頭のネジが足りない一般視聴者という目線で書かせて頂きます。


沖縄復帰の特集や、昨晩、野田総理をスタジオに招いて、ぶち抜きで約45分の放送。
構成などを考えたスタッフもお見事でしたが、大越さん、実にお見事でした!
それを、しれ〜っと交わす総理も流石だなと正直思いましたが、熱い放送でした。

大越さんは、1989年から約20年間以上、政治記者として仕事をされてきています。

時には良い意味で、NHK職員らしくない感情的で強い発言をされるので、つい聴き入ってしまう程です。

昨晩、選挙制度の問題に触れた時、それが垣間見えました。
しかし、ニュースなどでは、この放送内で総理が大飯原発再稼働に関して
言及した事のみが取り上げられていました。もちろんそれも重要なのですが、、、。

▼『首相 大飯原発運転再開“近く判断”NHK 5月17日23時14分


そんな大越さんのコラムは、とても勉強になります。

その中で、16日に更新されたコラムが良かったので、転載させて頂きます。
ちょっと長いですが、是非読んでみて下さい。


『彼女の必然』
2012年05月16日(水)

「バイバーイ!」という声に、精いっぱい応えるかのようにして、その少年は港の桟橋からじゃぶんと
海に飛び込んだ。達者な立ち泳ぎで水面にぷかぷか浮かびながら、ちぎれんばかりに手を振っている。
この光景にいささか驚きながら、そうか、俵万智さんが心奪われたのはこういうことだったのかと思った。

沖縄の西端、八重山諸島の中にある竹富島でのできごとである。飛び込んだのは、小学5年生くらいの
島の男の子だった。高速船に乗って島を後にする知り合いの家族連れを見送りに来たらしい。
ぼくは、竹富島の景観と暮らしを守る島民たちの取り組みを取材した後、お隣の石垣島に住む
歌人の俵さんにインタビューに向かうため、この船に乗り込んでいた。

沖縄は、15日に本土復帰から40年を迎えた。一向に減らない基地の負担へのいら立ち、
そもそも琉球という独立した王国を形成しながら、日米の間で施政権を翻弄されたことへの不信。
沖縄の県民感情は本土に対して複雑である。しかし、沖縄の自然はいろいろな人間感情を
超越してそこにある。人々は海と大地のふところに抱かれるようにして、
ぼくたち旅人に対してもおおらかで優しい。

俵さんが石垣島に移り住んだのは、福島第一原発の事故から逃れるためだった。
震災発生時、自宅のある仙台に小学生の長男を残し、仕事のためひとり東京にいた俵さんは、
5日後になんとか仙台にたどり着くと、その長男の手を引いて山形空港に向かった。
飛行機を乗り継いで西へ西へと向かううちに、石垣島の知人の元に身を寄せることとなった。
仮の避難場所と心得ていたはずが、この島に住まいを構え、住み着くことになった。

「息子はテレビゲームを全然しなくなりました。『だって、自分がマリオだから』って」とおかしそうに笑う。
アドベンチャー・ゲームのキャラクターは、今や自分自身というわけだ。
それほどまでに石垣での暮らしは、少年にとって豊かな冒険の魅力にあふれている。
震災直後は、ストレスからか指しゃぶりなどの赤ちゃん返りすら見られたという。
しかし、小中学生合わせて13人という小さな学校で、「にいにい」や「ねえねえ」とともに学び、
そして大いに遊ぶ日々を過ごすうち、みるみる元気になっているという。

「震災は、自分にとって何が一番大事かをひとりひとりが突きつけられた経験だったと思います。
私にとってそれは息子でした。歌人である自分は幸いどこにいても仕事ができるし、
身を寄せる知人もいた。だからここにたどり着いたのは、自分にとっては自然な行動でした」と
俵さんは振り返る。「逃げることができる人はいい」と、被災地から嫌みを込めたことばを
投げつけられることもあった。それが心に突き刺さり、つらい思いをしたというが、
自分にとってはこれが必然だという思いが勝った。何より、たくましく成長していく息子の姿が
彼女を勇気づけた。この転機を生かし、島での暮らしを母子の糧としていくことは、
彼女にとっては第二の必然だったに違いない。

「『あんなところにまで逃げなくてもよかったのにねえ』って、笑い話になることを願っています」と言う。
一方で、誰にとっても、すべてを震災前の状態に戻すことは不可能だとも。
境遇の変化に否応なく向き合わなければならないとしたら、少しでも前向きでありたいと
俵さんは考えている。多くの人にとって、震災の前より今のほうが良いとはとても言える状況ではない。
しかし、「せめて前の自分より、今の自分が好きといえるようでありたい」と俵さんは語る。
震災で深い傷を負った被災者たちの背中を、そっと押すように。

インタビューした場所は俵さんの自宅から車で10分ほどの海沿いの喫茶店のテラス。
広々とした佇まいに、これなら子どもを連れてきて遊ばせておけばよかったかなとつぶやいたが、
まあ気にすることはないか、とあっさり撤回した。「子どもは近くの友だちと勝手に遊んでいるし、
友だちのお宅にそのまま上がり込んでご飯を食べたり、泊まったりするのも日常のこと。
放っておいても平気なんです」と笑っている。あの「サラダ記念日」から25年。
みずみずしい感性で一世を風靡した女流歌人は、
豊かな自然に抱かれた大らかな母さんとなってそこにいた。