opuesto / Tate’s Official Blog

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その後の昆愛海ちゃん

続きの話ですが、ず〜っっと気になっていた、
その後の昆愛海(こん・まなみ)ちゃんのトピックを見つけましたので紹介させて頂きます。

まず、1枚の写真を観た時の素直な感想は、
「大きくなったな〜」と。


以下『ケセランパセラン Memento311』というHPからの転載です。


▽『[ 第8回]「補助輪なしで自転車に ひとりで乗れるようになった愛海ちゃん!」

「今日から(自転車の)補助輪を取った!」

本州最東端の学校・岩手県宮古市の重茂半島にある千鶏小学校近くに住む
昆愛海(こん・まなみ)ちゃん(6)が黒い自転車を持ちながら、はにかんだ。

近くの電気屋さんの人に教えてもらい、練習を続けていた。

コツを覚えたようで、補助輪なしで乗ることができた。

練習をしているのは小学校の校庭で高台にある。

そこから美しい太平洋を望むことができる。

津波の影響で今は閉鎖され、誰もいない。

おらず、震災前に聞こえていた子ども達の声はなく、ただ、静かだ。
ただ、そこから景色を見ていると、津波が来たことを忘れてしまうほどだ。

震災後、重茂半島は何度か訪れた。

最初は、今回の震災での津波の最高遡上高を記録した姉吉地区に行くためだった。

そのときはすでに暗くなっていて、写真を撮る以外に、取材ができないでいた。

その後、何度か姉吉地区には来ていたが、住民の話をゆっくり聞く機会がなかった。

そして、夜の通過がほとんどだったために「山奥」という印象だったが、昼間に通って見ると、
風光明媚な三陸海岸を眺めることができた。震災取材ということを忘れてしまうほどだ。

私が重茂半島でゆっくり取材できたのは、三陸の今を発信する情報誌「Re-born」(休刊中)のおかげだ。
共同編集人として手伝ったが、創刊号の特集は重茂半島だった。

地元メディア以外ではそれほど注目されることもなく、
震災から時が過ぎて行った印象がある地域だった。

各集落の津波被害の大きさに、それまでほとんど話を聞いていなかったことを後悔するほどだ。

震災当日は、千鶴地区では、高台にある学校まで大津波が襲い、浸水した。

30メートル以上、津波が駆け上がってきたためだ。

この周囲は宮古市と山田町を結ぶ県道41号線しかない。
それぞれに集落には漁港があるが、その辺りは浸水した。

集落にいた約300人は孤立状態になっていた。

そのため、初期の報道も少ない。

2012年5月某日、愛海ちゃんは補助輪なしで自転車に乗れるようになった初日だった。
私が愛海ちゃんを訪ねたときはお昼を過ぎていていた。

この日はすでに練習を終えていたが、初めて訪れた私に対して、その姿を見せたかったのだろう。

出会ってから一時間も経たないうちに、私を校庭に誘った。
祖母の幸子さん(64)に取材をしていると、多少、いらつきを見せていた。

早く遊びたい様子だった。

ただ、別の理由もあったようだ。

「(愛海ちゃんは)震災前は、ぜんぜん人と話すことはなく、
お客さんが来ると隠れているほうが多かった。で、震災後はも取材で話すようになったんです。
お客さんがきても私と話させない。なるべく、自分のほうに、って感じになるんです」(幸子さん)

愛海ちゃんは震災で母親が死亡、父親が行方不明で、孤児になった。

そのため、一時は取材が集中した。そのため、たくさんの人たちと接した。
それによって、社交的になったという面があるという。

取材で訪れる記者たちは、ちょうど両親くらいに見えるためもあるのではないか。

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震災当初、4歳だった昆愛海ちゃん6歳になっていると書いてありましたので、
最近の記事だと思われます。詳細が、分からず、、ですが。


この記事を読み、胸がいっぱいになったと同時に、
「今出来る事」は、もちろんですが、
「これから先、自分に出来る事」を改めて強く考えさせられました。