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TBSラジオ Dig 7月14日(木)放送『原子力ムラは、今』のまとめ

7月20日に更新させて頂きました「TBSラジオ Dig 7月14日(木)放送『原子力ムラは、今』」。

ポッドキャストを聴けなかった方ように、INOMATA氏からの、まとめを。

お時間がある時に、じっくり読んでみて下さい!


■新潟、福井、茨城など古い原子力ムラを調査。
日本の高度経済成長とリンクする形で、原子力が推進されてきた。

60年代当時は、原子力発電所のリスクが可視可されていなかった。
チェルノブイリ、スリーマイル以前)

現在のような原発の危険性がまだ見えなかった為、それよりかは、
産業誘致を優先するのは仕方がない部分が大きかった。

福島第一原発誘致において地元の反応
・61年頃
大きな工場ができるから、地元が発展できるという認識のため、誘致には熱心だった。
原発に関する理解はほぼない

福島第二原発誘致において地元の反応
・60年代後半
ヒッピーカルチャー的な様々な社会運動が盛り上がりを見せた時期での誘致と建設である。

そのため、福島第一の際にはなかった住民や活動家による反対運動もあり、
すんなりとは建設に至った訳ではない。

しかし、社会党共産党などをバックにおき別個に運動していた反地運動だったため、
結果としてまとまれ切れなかった。

一方、浪江町にできるはずであった原発は、農民の土地を守るといった意識で自発的な反対運動の結果、建設は中止に。


■311以前の、地域における住民意識の比較

新潟は反対運動が根強い。住民運動はもちろん、議会でもある程度の反対派が存在。
反対に福島は、議員でも原発反対派はほぼゼロ。

原発に対する恐怖感はほぼない。交通事故の可能性のほうが怖いからびくびくしていてもしょうがない
福島県 原発周辺の地元の農家)

今でも、地元を発展させていきたい意識がある。マクドナルドがあれば、子や孫が喜んだ顔が見たい。
(青森県 六ヶ所の方)

出稼ぎを一年の半分もやらなければならない状況で、原燃がきて楽になった。
青森県 六ヶ所の方)

上記のように、我々が考えるような、強い反対運動がある訳ではない。

しかし、原子力サイドのいうことを信じることによって、安心を得る心理が働いているように見える。

結果として、人間心理として仕方がない部分もあるが、むしろ積極的に洗脳されてしまっている。


■311以降の福島の原発周辺の意見はどうなったか

原発を建設したい人々(政府、電力会社、地元誘致側)の意見は変わっていないのではないか。

事故後は原発が危ないことはわかっているが、原発をなくした後で、仕事があるのか、生活の保証はあるのか。

収入面でみた場合、原発で得れる金額が圧倒的に多いという現実。

原発建設の時期は、専業農家兼業農家にうつっていった時期と重なっていた。
農業だけでは食べていけない現実がある。

今回の事故で大変な目にあっているが、町が原発のおかげでうるおっていたのは、事実。
(20年前から福島で就職したかたの意見)

様々な業種が、原子力産業が地元にあるという前提で成り立っていた部分が大きくある。

原発事故以降でも、その前提が大きく揺らぐことは感じられない。

もちろん、原発事故事態には困っているのは事実。
しかし、原発をやめて自然エネルギーにすることで、私たちの生活はだれが見るのか、誰が保証するのか。

結局、原発を維持することでしか、未来を見いだせない。


■311以降の原発をとりまく東京などの都市部の意見

脱原発デモも多く、それ自体は否定されるべきものではない。

しかし、もともと中央にすむ我々のエネルギーを担う形で原発を押しつけてきた歴史がある。

我々の都合で、脱原発を押しつけて、その結果として、地元雇用を取りあげるという視点はあるのか。

原発以外の仕事をすればよい、との意見もあるだろうが、現状では、すぐに、地元雇用を生み出せる訳ではない。

また、夕張や、多くのリゾート開発などに象徴されるように、地方での雇用創出は非常に難しく、
工場などの大型雇用の場が失敗して閉鎖している現状を無視して、この問題を語ることはできない。


■■■

元々、中央から押しつけられた原発

これまで、原発によって潤ってきた地元。

今更、中央から脱原発といっても、簡単には賛成できなくなっている。

米軍の基地問題と構造が非常に似ているように、中央と地方という構造に陥ってしまっている。

福島の人たちに対しては、原発利権を受けてきたからしかたがないだろう、といった自己責任論、
子供たちが被爆している、農家の方々がかわいそう、といった哀れみの視点。

この二項対立で語られるが、あくまでも、それは他人からの視点で語っているにすぎない。

その間にある考え方が、忘却から逃れる視点ではないか。

原発が危険だからなくしたいという考え方。自分たちにとって危険でなくなれば、原発について考えなくなるのではないか。

結局、福島の人たちは忘れ去られてしまうのではないか。


■そうならないために

ドイツと日本の第二次世界大戦後における戦争責任の取り方を例にとって

○刑事的な責任

電力会社や政治家が法律を守らなかった責任

○政治的な責任

政治家や国民が政治に参加せず放置してしまった責任

○共同体的な責任

本当は止められたかもしれないのに、放置してしまった責任

○形而上の責任

被害にあったのが自分ではなかったことの責任


いろいろなレベルの責任がある。これをクリアしていかないと、今回の問題は解決しないのではないか。


東電に賠償責任をとらせるといったこととは別に、何故このような事故が起きてしまったので、
起こさないためにはどうしたらよいのか。

連続論による考え方。

1945年までは日本は野蛮だった。それ以降は民主化されて、日本が明るくなったという意見があったがそれは本当か。

実際は、1945以後でも野蛮な部分もあったし、以前でも民主的な動きはあったはずである。
以前も以後も連続しているという考え方。

そういった考え方をする事によって、責任逃れをしていた人をあぶり出すことができるのではないか。

以前までは、原発推進は間違っていたんだ、一億総懺悔して次のステップにいけば、面責されるという話であれば、
日本の戦後に起こったことを繰り返しかねない。


あえて、311でもなにも変わっていないと設定する事で、責任逃れを単純にしてはいけない。