山根りんさんの言葉です。
私は日々便利になっている世の中を当たり前だと思っていました。
毎日学校に通い、家族と一緒にご飯を食べること、
母がいつもそばにいてくれることも当たり前だと。
あの日が訪れる前までは。
忘れもしない2年前の3月11日。
突然、今までに感じたことのない地鳴りとともに強い揺れが襲ってきました。
高校からの帰り道、私を心配し母が迎えに来てくれました。
周りを見渡すと真っ黒い津波が遠くに見えていたと思っていたのに、
母と一緒に高台へと避難しようとしていた足元に濁流が近づいてくる。
「大丈夫だよ」そう励ましながら母の背を押すように急いでいた矢先、
突然、視界が真っ暗になり、気が付くと海の中にいました。
必死にもがき、薄れる意識の中、木材につかまり黒い海の上に出て、
辺りが静まり返った中、母を何度も何度も呼び続けました。
私は近くの建物まで泳ぎ、今こうしてこの壇上に立っています。
一緒に笑い、当たり前のように暮らしていた母が亡くなるなんて。
数日後、遺体安置所で見つかった母の顔を見たとき、
「これが現実なんだ」と気付き、あの時ほど母の大切さを感じた時はありません。
あれから2年。
私はあの日より、少しだけ強くなりました。
それは、亡くなった母への思いと残された家族や友人、そして多くの方々の支えがあったからです。
私はもちろん、被災者は、全国・世界の皆さまから、多くの支援物資、
義援金による支援や、自衛隊、ボランティアによる温かい支援、
励ましの言葉を受け、生きる希望が生まれました。
人と人との絆や助け合い、人の温かさを強く感じ、とても勇気づけられました。
だからこそ今、私も前を向いて生きること、
自分が決めた道を歩むことも少しずつだけど、できているような気がします。
私の生まれ育った宮古の今は、壊れた道路が直り、新しい店舗や家が建ち始め、
通学途中にあったがれきの山も減り、着実に復興が進んでいると感じられます。
なにより周りのみんなに笑顔が増えたと思います。
母に感謝の言葉をかけることも、親孝行もできませんでしたが、
私が自分らしく生きていることが母に対する一番の恩返しだと思っています。
多くの命が犠牲になった中、助かったからには、生きて人の役に立つことが自分の使命だと考え、
世界の自然災害が発生した国々において、自らの被災体験を生かした支援活動ができる人材となり、
東日本大震災がつらい記憶ではなく、未来につながる記憶となるよう、
被災地から私たち若い世代が行動していきます。
最後に、天皇皇后両陛下をはじめ、世界各国や日本中の多くの皆さまからの
励ましやお見舞いありがとうございました。
今日こうしていられることに感謝し、恩返しすること、忘れないこと、
これからも自分らしく生きることを誓って、遺族代表の言葉とさせていただきます。
岩手県代表 山根りん