全てスムースに進む事は、ほぼ無いのですが、
可能な限りトラブルを軽減する努力は継続しています。
それでも、人が集まれば予測出来ない事態も起きてしまいます。
ただ、その時に色々と試され鍛えられるものです。
永遠にその繰り返しです。
なんて、真面目な事を書いていますが、
また例の本から一節を紹介させて頂きます。
今回は『嫉妬心』です。
〜知人が高く評価されるとなぜ反射的に否定したくなるのか〜
嫉妬心について。
この煩悩は、けっこう恐ろしいもので、例えば「あの人は頼りになるし才能もあるし」
なんて、自分の嫌っている知人が持ち上げられていると、反射的に否定したくなったり、
「いや、でもさあ、実は性格が悪いらしいから、あまり関わらない方がいいよ」と
いった具合に。
この嫉妬心が望むのは、話題の人の評価を下げること。
ところが、その人のことを高評価している聞き手にとって「でもさあ」という
低評価は、自分の考えを否定しているように聞こえるため、不協和音にしか感じられません。
その結果、嫉妬の標的の評価を下げるどころか、他人をけなす心の狭い人物として、
皮肉にも自らの評価を低下させることになるのです。
では、このような苦しい思考にはまり、他人の幸せを喜べない醜さに陥る理由は何でしょうか。
筆者の見るところ「他人の幸福度が上がると、その人の価値も上がり、相対的に自分の価値が
低くなる」という錯覚に基づいています。
数値で例えるなら、自分の価値は「10」のままでも、価値「7」の知人が「15」に上昇すると、
自分の「10」にあまり価値がなくなったかのように感じる。ゆえに毒の味となります。
反対に知人の「7」が「3」に下がると、自分の「10」がより際立つがゆえに、
他人の不幸は密の味となるという塩梅なのです。
けれども、それは相対的に考えることによる錯覚にすぎず、そもそも自分の価値が「10」で
あることに、変わりはないのです。その事を自覚すれば、嫉妬は和らぐでしょう。
「他人の価値とは、無関係なんだ」と。
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頭で理解していても陥るポイントかなと思います。
「人は人、自分は自分」と親父が頻繁に言っていました。
「隣の芝生は〜」です。
会話の中で、常に「でも〜」と言う人も居ます。
この癖を持っている人は、なかなか会話がスムースに行きません。
相談しつつも、答えは自分の中に持っているタイプの1つです。
ただ自分の話を聞いて欲しいだけなのでしょう。
話は少し反れましたが…
嫉妬心も、ほどほどにしないと自滅するだけかなと感じます。
厄介な煩悩ですが…。
脳内BGMは『Pizzicato Five/"大人になりましょう"』でした。
それはそれで『「自殺と原発事故に因果関係」東電に賠償命令』。
この大きな動きに関して、また近々更新したいと思います。